CRITIQUE

「うつわ」を描く

村田 真

 2007年の個展を見て(正確にはその前に案内状の画像を見て)、いささか驚いた。椀やら瓶やらさまざまな器が横に並んでいるだけの、まるで17世紀のスルバランのような静謐な静物画だったからだ。菅野由美子といえば、80年代前半に、骨格むき出しのクジラが「ぶわっはっ」とかいってる絵や、戦闘機みたいな鳥のオブジェなどを配したにぎやかなインスタレーションで、〝明るく軽いニューウェイブ〟のアーティストとして名乗りを上げたのではなかったか? その後、80年代後半には神秘性の漂うシンプルなオブジェに移行していくが、作品の印象としてはデビュー当時の奔放なインスタレーションが鮮烈なだけに、その落差に唖然としたのだ。

 だが、実際に絵を見て「なるほど」と妙に納得もした。なぜ納得したのか、あれこれ想像を巡らせてみたい。

 菅野は1992年を最後に、体調不良のため発表が途絶えてしまう。当時、雑誌で見かけた彼女のポートレートはまるで病人のようにやつれていた。本人によれば、なにもする気が起こらず、力が入らない状態だったという。鬱というわけでも、ひきこもりでもないそうだが、精神的に凹んだ状態で、以後15年ほどなにも制作できないまま過ごしたという。ようやく絵筆をとったのは、21世紀も数年が過ぎたころだった。

 もともと絵を描いていた人間が、15年も「沈黙」して再び絵筆を手にするとき、なにを描きたいと思うだろうか。端的にいえば、その「沈黙」ではないか。沈黙を描くことはおそらく、なにもしなかった15年間への復讐であると同時に感謝へとつながるかもしれないから。しかし、沈黙を描くとはどういうことか。沈黙の中身は「空(くう)」であり、なにもない。「なにもない」が充満している状態といってもいい。空は「から」であり「うつ」でもある。なにもない空っぽの状態を描こうとすれば、空を内包する「器」しかないではないか。というと、出来過ぎた言葉遊びに聞こえるかもしれないが、しかし凹んだ気分だから器を描くというのは、少なからず真実をはらんでいるように思う。

 いまいちど、長期間なにも描かなかった絵描きが再び絵筆を手にしたとき、なにを描くかを問うてみたい。おそらく、身近にあるものを、その「もの」があることの愛おしさを、存在することの「有り難さ」を、描いてみたくなるのではないか。もちろんこれも憶測に過ぎないが、15年も「静かな生活(still life)」を続けていれば、世界観も変わるはず。それを声高に表現することもできたはずだが、慎ましやかな彼女は「still life」のままに、身近なありふれたものを、ありのまま描くことから始めたのではないか。そのありふれたものが「器」だったと。

 「もの」を「ありのまま」描くというのは、言葉でいうのはたやすいが、実際に描こうとするときわめて難しい、というより不可能なことである。なぜなら、私たちは「もの」そのものをありのままに見ることができないからだ。私たちは「器」を見ているつもりでも、見ているのは器に当たって反射した光にすぎない。その反射光が網膜を通って脳内で器のイメージを結ぶ現象を「見る」というのだから、私たちは器そのものを見ているのではなく、ただ光を感じているだけでしかない。したがって、描いているのは「もの」ではなく「光」なのだ。

 このことは、もう150年近く前から印象派の画家たちによって実践されていた。彼らはそれ以前の画家たちのように、人物や風景や静物を描くことをやめ、目に飛び込んでくる光を色彩で再現しようとした。だから印象派にとっては人物も風景も静物も大した違いはなく、ただ光の戯れを定着しようとしただけなのだ(印象派以前にこのことを理解していた画家はただひとり、フェルメールだけだろう)。以来、素朴に「ものを描く」ことは無知か欺瞞ということで退けられ、表現主義や抽象に走ったり、オブジェに解を求めたあげく、ものそのものを提示する「もの派」に行きつく。これが20世紀のモダンアートだとするなら、21世紀に絵画制作を再開した菅野が、素朴に「もの」を描いているのでないことは明らかだ。

 今度は別の視点から「もの」を描くことの不可能性に接近してみよう。人物にしろ風景にしろ「もの=物質」であることに変わりはない。風景の大半は空気(大気)ではないかといわれそうだが、空気だって固体に比べて自由度が高い物質であり、どちらも突き詰めれば分子、原子、素粒子に行きつく。こういう極小の世界をのぞいてみると、逆に宇宙にも似たスカスカな空間が広がっているはず。さらに突き詰めると実体すらなくなり、振動だけになる。畢竟、物質とは実体のない振動であり、空間の「ゆらぎ」にすぎないのだ。だから、たとえば「器のある風景」は、なにもない空間のなかに器が存在するのではなく、ゆらぎの密度の異なるふたつの領域が生じている状態、というべきなのだ。

 ここまでくるともはや禅問答に近くなるが、量子論や宗教哲学に関心を寄せる菅野には初歩的な前提かもしれない。問題は、それを描けるかどうかである。

 見たところ、菅野は器と空間を等価に描こうとしている。必ずしも成功しているとはいえないが、空間のなかに器があるというより、空間も器もパラレルな存在として捉えようとしているのがわかる。しかし、その存在の中身はただのゆらぎであり、スカスカのミクロコスモスが広がっているだけ。そんな「なにもない」に満たされた「器」を、菅野はこれからも描き続けるだろう。

(2019年8月 むらた まこと・美術ジャーナリスト)